ヒストリエ1巻
ヘルミアス。物語の1番初めに出てきて処刑されている。どうやらアリストテレスを逃した男みたい。
小アジアのミュシア地方にあったアタルネウスの僭主。プラトンのアカデメイアに学んだことがあり,その学徒を統治に参加させたり,アッソスに新しい哲学の学校を開くなど,穏健な支配を行なった。アリストテレスとも親交があり,プラトンからも書簡を受けている。かなりの陸海の軍事力と財政力を有し,事実上アケメネス朝ペルシアから独立していたが,前 342年裏切りによってペルシアに捕えられ,処刑された。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%82%B9-130797
メムノン。上記処刑している。ペルシア帝国のアッソス。
メムノン(ギリシア語:Μέμνων, ラテン文字表記:Memnon, 紀元前380年 – 紀元前333年)は、ギリシア人でありながらアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世に仕えた軍人(傭兵)である。ロドス島の出身。他の同名の人物と区別してロドスのメムノン(Μέμνων ο Ρόδιος)とも呼ばれる。
メムノンの妻であるバルシネは、元はメムノンの兄メントルの妻であった。しかしメントルの死後、メムノンはバルシネを自身の妻とした(メムノンの死後、バルシネはアレクサンドロス3世の側室となった)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%83%B3
エメネウスについて
出身はケルソネソス半島(今日のトルコ領ゲリボル半島)の都市国家カルディアで、書物などにはしばしば「カルディアのエウメネス」と表記される。
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9
その出自は不明だが、プルタルコスはその著書『対比列伝』の中で大王の父フィリッポス2世と親しい人物の子ではないかと推測している。また、「故郷を追われた者」とも書かれているが、その理由にも触れられていない。
アリストテレスはペルシアから追われていた。スパイ容疑だ。脱出するために家を渡ろうとするところに主人公 エウメネスと出会う。 この曲は学問に対する作用がありアリストテレスと意気投合する。ペルシアの面から逃げるために紀元前343年アジアからヨーロッパへ逃げ戻る。逃げた最初の先はカルディア。ここで場所を下された主人公は単独でカルディアに向かうことになるが、マケドニアの大群が。そこに入りたいと希望する人たちと策を練り入場することができた。
そこエメネウスの家の跡地を見る。そこから回想に入っていく。
父親はヒエロニムス。日々勉学に励む。アナバシス最終巻を読むことを楽しみに。
マナウスは夢を見る。女性が舞うように剣を使い男たちをなぎ倒す。しかし殺されてしまう。朝様子をじっと見つめるエネオス。
エウメネスは今から読んだ知識を友達同士に話す。ペルシア帝国のメディアそこにつきたい人の1団が肌を求めてやってきた。メディアと吐きたい人はとても有効な関係だったが、ある時ささいなことから王様の気分を買いしてしまいそのことに怒りを覚えた好き大人たちは王子の肉を王様に喰らわすと言うことに出た。時は流れ 大飯を継いだ当時のことを知っている王子は徴用していた。家臣にの失敗に腹を立て、その家臣の息子の肉を調理して食わせた。その歌詞の名前はハルパゴスと言う。
アステュアゲスはハルパゴスの忠誠心に感銘を受け、彼をメディアの軍の指揮官に任命した。ハルパゴスは、アステュアゲスの裏をかき、ペルシャ軍に反乱を起こさせ、多くの軍隊を獲得した。アステュアゲスの娘であるトミュリスも反乱に加わり、キュロスの反乱によりアケメネス朝ペルシャ帝国が建国された。
ある日、体育の訓練で優秀な成績を収めていたエウメネスは、上級生から因縁をつけられ、いじめられそうになった。エウメネスの同級生たちはボコボコにされ、エウメネスは良い子だからと手を出さなかった。しかし、兄のヒエロニュムスが呼び出され、二人は戦うことになった。
ヒストリエ2巻
ヒエロニュムスは、いつも優秀な妹エウメネスに比べて劣等感を抱いていました。父親もエウメネスの方を褒め称えていたので、ヒエロニュムスは兄としての威厳を示そうと必死でした。いつも夢に出てくる、舞うように戦う女性のイメージがメネスに浮かび上がった。彼は相手の動きを読むことができ、圧倒的な力で上級生を叩きのめした。兄のヒエロニュムスも例外ではなく、メネスに叩きのめされた。
トラクスと言う奴隷がキーマンとなるようだ。この物語は。主人はテオゲイトンと言う性格の悪い主人であり、いつもきつい鎖で繋いじめ倒している。
ある日、トラクスの手錠が外されているのを見る。街の人々はいじめられていたトラクスに ある程度の自由が承認されたのだと思っていた。しかしそのトラックは一家の主もろとも殺し、顔の皮をはいだ。スキタイ人の血は強い。
テオゲイトンは、息子が殺されたことを知り、激怒した。彼は村の有力者に相談し、息子の敵を討つために奔走した。トラックスは、門を閉め、門番を次々と殺していた。彼は徐々に村の中心部へと進み、男も女も子供も関係なく、刈谷の市民を殺し始めた。彼はたった一人で、大勢の市民と互角以上の戦いを続けた。しかし、やがて完全武装の兵士たちが現れ、トラックスは殺されてしまった。
エウメネスとヘカタイオスは、トラックスがヒエロニュモスの主人を殺害したとして告発された。トラックスは瀕死の状態で発見されたため、彼が犯人である可能性は低かった。エウメネスとヘカタイオスは、自分が殺害を目撃したと証言した。しかし、彼らの話は多くの人々に受け入れられなかった。エウメネスはもともと奴隷であり、自由人であるヘカタイオスと親しい友人であったという事実は、多くの人々に疑惑を抱かせた。
牢獄に入れられた後は、自分が奴隷であると言うことを自覚させるための教育が連日続いた。そして心が折れた。彼は常に奴隷であるという自分の過去に悩まされ、自由人としての地位を獲得することはできなかった。
カロンからエウメネスの母親の最後の話を聞きます。 ヒエロニムスは彼女の獅子奮迅ぶりに感銘し、自分の一家の守り神としてエウメネスを育てることとした。
ヒストリエ3巻
エメネウスは高額でゼラルコスという商人に買い取られる。最後に「良くも騙したな!」と絶叫をあげ。
エメネウスはカロンの手によって人質にされ、母親を追い詰めたということを告げることができず、奴隷のみに落ちても諦めずに行きていくようにと伝える。
ペリントスに 向かう船上でゼラルコスは 裏切りに会う。 奴隷たちに切り刻まれ海に捨てられてしまう。
船の全てを掌握した奴隷たち、しかし操船のための人員が足らずに船は沈んでしまった。
エメネウス は、幸運にも陸地に流れ着き村の人々に厄介になる。
もともとこの村はボアと言う女性に率いられてやってきた侵入者の1族だった。村が栄えてくると原住民たちといざこざが起こるようになり、近くのギリシア都市ティオスに調停を依頼し、平和が訪れた。ティオスへの貢物を届けに来る途中でエメネウスを 村人が見つけたのだ。
エメネウスは村人に 剣術を教えてもらう代わりにヘロドトスについて教えることになった。
ヘロドトスの物語は評判を呼び、大人たちも集まるようになり、最終的には村の集会所で、村の子供たちを含むすべての人にギリシャの神話が語られるようになりました。
こうして年月が経ちました。
何年も経ち、私はすっかり村人の一人になりました。少なくとも、私はそう思っていました。オデュッセウスのようになりたいと思ったことは一度もありませんでした。
同居人であるサテュラは 先代の村長ガルドの娘であり、その人は既になくなっていた。ティオスの実力者フィレタイロスとガルドは友情に結ばれており、フィレタイロスの息子と出会っていない許嫁となっていた。
ある日、村人が甲冑を着た舞台に追い剥ぎにあってしまう。その調査のために、ティオスに作物を奪われたと言う事と調査を依頼する。 追い剥ぎの軍団は、フィレタイロス家の執事が指揮していた。一方、村ではフィレタイロスの党首ダイマコスがサテュラを探しに現れた。
ヒストリエ4巻
ダイマコスが盗賊を指揮しているのではないかと疑ったエメネウスは、一人でティオスに行って情報を集めることにしました。彼はダイマコスが領土を拡大したいという野心を持っていることを知りました。エメネウスは村に戻り、ダイマコスが戻ってくる前に村を守る計画を立てました。
彼は村人に2つの柵を建てるよう指示しました。最初の柵は盗賊を遅らせ、2番目の柵は村人を守るために使用されました。エメネウスはまた、村で最も熟練した剣士であるバトに、盗賊を誘き寄せる役割を割り当てました。
計画は実行されました。盗賊が村に到着すると、最初の柵によって遅らされました。彼らは2番目の柵を突破しようとしましたが、バトに阻止されました。バトは戦いで殺されましたが、彼は盗賊を十分に長く遅らせて、村人が逃げることができました。
エメネウスと村人は森に逃げ込み、盗賊は追跡をあきらめました。エメネウスは村を救った英雄と見なされ、彼は一生村を導きました。
数日後、ダイマコスの次男であるテレマコスが村を訪れました。彼は兄の野望を知り、村を救ってくれたエメネウスに感謝するために来ました。テレマコスはまた、兄を止めるために彼の軍隊を連れてきました。
エメネウスはテレマコスに計画を話しました。彼はテレマコスの軍隊に村の近くの川の秘密の浅瀬に隠れるよう指示しました。その後、エメネウスはバトに川を渡ってダイマコスの軍隊の前で倒れてもらいました。バトはダイマコスの軍隊に捕らえられ、エメネウスの父を人質に取られていると嘘をつきました。
ダイマコスの軍隊はエメネウスの父を救うために川を渡りました。しかし、エメネウスと村人たちは彼らを待ち伏せしていました。村人たちはダイマコスの軍隊を攻撃し、彼らを打ち負かしました。ダイマコスも殺されました。
テレマコスは村を救ってくれたエメネウスに感謝しました。彼はエメネウスに娘のサテュラとの結婚を申し出ました。エメネウスは申し出を受け入れ、彼らは結婚しました。
エメネウスとサテュラは幸せに暮らしました。エメネウスは村を導き、サテュラは彼を支えました。彼らには2人の子供がいて、彼らは村で尊敬されていました。
その後、レミボス島の生物研究所を訪れたバルシネは、アリストテレスの行き先をおかしな研究者に聞きました。しかし、彼女が研究所を出ようとしたとき、彼女は目と鼻の先でアリストテレスが乗った船が去っているのを見ました。バルシネは船を追いかけようとしましたが、追いつくことができませんでした。
バルシネはアリストテレスの行き先を知るためにできる限りのことをするだろうと誓った。彼女は世界中を旅し、情報源に尋ねます。彼女は決してあきらめず、最終的にアリストテレスを見つけることを知っていました。
ヒストリエ5巻
エウメネスは軍隊を通り抜け、畑を通り、城門をくぐり抜けた。ヒエロニムス家の跡地に戻ると、彼は兄に会った。彼は母親の死を知り、墓石の前に立った。そこにはエウメネスの名前も刻まれていた。
カロンは貯めたお金で自分を買い取り、自由の身となった。彼は去っていった。エウメネスを追ってきたゲダラスは、彼に切りかかったが、返り討ちにされた。
エウメネスはヘカタイオスの家に行った。ヘカタイオスはゲダラスが殺されたことに激怒していた。彼はエメネウスを見つけると、殺すように命じた。
エウメネスは逃げ出し、市内をさまよった。アンティゴノスに拾われ、城の外でアリストテレスと再会した。パルメニオンを呼び出すと、アンティゴノスはエウメネスに、自分がマケドニアの王フィリッポスだと言った。カルディアとの和議を成立させるために訪れていた。
エウメネスたちはマケドニアの首都ペラにいた。パルメニオンの娘婿の家に住まわせてもらうことになった。主人のアッタロスは、戦争で息子を失って以来、酒浸りになっていた。
首都の生活にも慣れてきた頃、フィリッポス王に呼び出された。アリストテレスと共に、ミエザに学校を作るようにと命じられ、図書館の管理も任された。エウメネスは迷わず図書館への就職を申し出た。また、王からおもちゃを1つ作るようにと頼まれた。
エウメネスは、王の息子アリダイオスのために騎馬のおもちゃを作った。アリダイオスはおもちゃをとても喜んだ。
ギリシアの弱小国であったマケドニアに国政改革を施し、当時先進国であったギリシア南部の諸ポリスにも張り合える強国に成長させた。カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破り、コリントス同盟の盟主となってギリシアの覇権を握った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%9D%E3%82%B92%E4%B8%96_(%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%8E%8B)
パルメニオンは王の最も信頼する将軍であり、マケドニア軍の育成に尽力した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3
アリダイオス(希:Aρριδαιoς, ラテン文字転記:Arridaios、生没年不明)は、アレクサンドロス3世(大王)に仕えたマケドニア王国の将軍であり、ディアドコイの一人である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3
ヒストリエ6巻
エウメネスは、庭の噴水を作ったディアデスに工房の兵器を見せてもらった。その後、工房の連中と飲み交わして仲良くなった。翌日、話術の練習をしていたアレクサンドロスと出会った。
マケドニアで将軍といえばパルメニオンだが、元老といえばアンティパトロスを指す。アンティパトロスは、内政や外交に手腕を発揮していた。軍事部隊においては、ほぼマケドニア人が占め、内政方面ではギリシャ各地から雇われた外人が多かった。そのため、外国人にはアンティパトロス派がいることになっていた。
アンティパトロス(ギリシャ語: Ἀντίπατρος, ラテン文字転写: Antípatros、紀元前397年 – 紀元前319年)は、ピリッポス2世とアレクサンドロス3世に仕えたマケドニアの将軍である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B9https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B9
図書館の整理の仕事とともに、ネアルコスという若者とともに乗馬の技術も学んだ。
ネアルコス(古希: Νεαρχος, ラテン文字転記:Nearchos、紀元前360年頃 – 紀元前300年)は、アレクサンドロス3世(大王)に仕えたマケドニア王国の将軍である。
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部隊とは、個々の突出した能力は不必要であり、同一規格の装備で全体として動く組織が強い。エウメネスは鐙を開発したものの、そのような部隊の方向性では採用が見送られた。
アレクサンドロスはミエザに入学し、学友とともに十分に学校生活を楽しんでいた。
ある日、学友とアレクサンドロスは崖を見に行くが、増水か何かで橋が流されて渡ることができない。そこで、アレクサンドロスは馬で飛び越えることに成功した。ハルパロスもそれに続こうとしたが、滝に落ちてしまう。
ハルパロス(希:Ἅρπαλος、ラテン文字転記:Harpalos、? – 紀元前323年)は、マケドニア王アレクサンドロス3世に仕えた財務官である。
マカタスの子ハルパロスはアレクサンドロスの親しい友人の一人であり、アレクサンドロスが王になる前に彼が父のピリッポス2世と仲違いして追放された時に一緒に追放された人物の一人であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%AD%E3%82%B9
偶然にも居合わせたアリストテレスが人工呼吸をしてハルパロスを蘇生させた。
アレクサンドロスはミエザを抜け出し、母親の寝室に蛇の痣がない別人格のヘファイスティオンとして現れた。帰り際、エウメネスと出会い、アレクサンドロスがミエザに来なかったことを残念がっていた、と伝えた。
ヘファイスティオン(古代ギリシャ語: Ἡφαιστίων, ラテン文字転写: Hephaistíon、 紀元前356年? – 紀元前324年秋)は、マケドニアのアレクサンドロス大王の幕僚、友人である。ヘパイスティオンとも表記される。アレクサンドロスと同年であったが、身長と体格では優っていた。容貌は美しかったが、軟弱ではなく武勇に優れていた。大王とは非常に親密な関係であり、大王よりも1年早く病死したが、そのとき大王は大いに悲しんだという。
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ヒストリエ7巻
ヘファイスティオンが現れる原因となったのは、母親オリュンピアスの情事を見たときです。勘違いしたアレクサンドロスは男を殺そうとします。
男に剣を奪われるも背後からやってきた母親によって男は殺されてしまいます。動揺するアレクサンドロスを抱きかかえ、鏡を見せ、いつもそばにいるイマジナリーフレンドを作る母親。アレクサンドロスに心の声が聞こえる。「あれは本当に母親に襲われた姿?」「先程殺された男は自分の父親では?」と。
オリュンピアス(ギリシャ語:Ὀλυμπιάς、紀元前375年 – 紀元前316年)は、エピロス王ネオプトレモス1世の娘、マケドニア王ピリッポス2世の4番目の妻であり、アレクサンドロス3世(大王)の母である。狂乱的な蛇崇拝のディオニューソス信仰の熱烈な信者であり、1世紀の伝記作家プルタルコスは、オリュンピアスが蛇と寝ていた可能性を示唆している[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%A2%E3%82%B9
ペウケスタスはアリストテレスの人工呼吸に興味を持ち、学校に忍び込むも生徒たちに捕まってしまいます。アレクサンドロスが現場に到着すると、彼を開放するようにといい、またハルパロスを助けた温情から、ミエザの学校への入学を許しました。
エウメネスが考案したチェスで遊ぶマケドニア王フィリッポス、アンティパトロス、パルメニオン。その後家をもらい、マケドニア王家の家臣となりました。
紀元前340年、マケドニアはペリントスとビザンティオンに攻撃を始める。この2つはマケドニアギリシア統一を阻止するアテネの重要拠点でした。
部隊はカルディアへと移ります。マケドニアから派遣されたエウメネスはかつて奴隷のみになるきっかけを作ったヘカタイオスと再開します。かつて貶めたエウメネスが、駐留軍を率いていることに困惑します。
マケドニアとカレス将軍率いるアテネの援軍がビザンティオンと対峙します。
ペウケスタスが史書において初めて言及されたのは紀元前326年にヒュダスペス川を下る際の三段櫂船艤装奉仕の担当者の一人としてであり、それ以前の彼の働きは知られていない[1]。
ペウケスタスが一躍有名になったのは紀元前325年のマラヴァスへの攻撃においてである。その時王に付き添っていた彼は、一人敵の真っ只中に飛び込んで危険に陥った王をレオンナトス、アブレアスと共に助け、トロイのアテナの神殿から取ってきた聖なる盾で庇い、負傷した[2]。この功績によりペウケスタスは東征の軍功第一位に選ばれ、スサではいの一番に功績に金の冠でもって報いられた[3]。ペルセポリスに着いた時にペルシス太守に任じられた[4]。なお、それに前後して彼は王の側近護衛官に昇進しており、その時王は彼のために本来は七人だった定員を一人分増やすという特例処置をとった[5]。
太守としてのペウケスタスはペルシアの服装と風習を積極的に取り入れることによってペルシア人の支持を得たが、マケドニア人からは不興を買った[6]。紀元前323年の春、 20000のペルシア人兵士を率いたペウケスタスはバビロンへと病に臥せっていた王の元にはせ参じ[7]、王が危篤の時にはサラピス神殿で参籠した[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B9
ヒストリエ8巻
ビザンティオンのは背後にはアテネが、さらにペルシアが協力しており、各種新兵器が導入されていました。膠着状態の時にペリントスのマケドニア艦隊がフォーキン率いるアテネ艦隊に打ち破られペリントスへの上陸を許してしまったとの知らせが来ます。
そのままマケドニア王、エウメネスのいるビザンティオンに海軍がやってきます。操船技術に長けたアテネ艦隊はマケドニア艦隊を壊滅に追い込もうとします。さらにメムノン将軍率いるペルシア艦隊がやってきて絶体絶命の危機をむかえます。
フォーキオンの父については、伝記作者のイドメネウスが杵作りの職人と書いているが確証はない。ごく若い頃にプラトン、クセノクラテスの講義を聴くためにアカデメイアに出入りする[1]。将軍カブリアスに従い、前357年にカブリアスが戦死するまで地中海を中心とした各地を転戦する[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%82%AA%E3%83%B3
メムノン(ギリシア語:Μέμνων, ラテン文字表記:Memnon, 紀元前380年 – 紀元前333年)は、ギリシア人でありながらアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世に仕えた軍人(傭兵)である。ロドス島の出身。他の同名の人物と区別してロドスのメムノン(Μέμνων ο Ρόδιος)とも呼ばれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%83%B3
マケドニアは撤退し、その足でイストリアに進軍します。イストリア北部にあるスキタイ・アタイアスはイストリアとの戦争に疲弊し、王位を譲ることを条件にマケドニアに対して援軍を要請していたのでした。しかし、進軍途中でイストリアの王は病死、援軍が不要になったスキタイは王位も諸経費も払わぬと突き放して、そのまま戦争へとなだれ込みました。陸軍最強のマケドニアは余裕の勝利を果たします。
その帰路、宝を持っているという噂を聞きつけたトリバロイ(盗賊)に襲われ、フィリッポス王は負傷します。エウメネスの独断により部隊に伝令をし、辛くもトリバロイを追い払うも、奴隷は逃げ出し王は負傷し、損害を被ります。
ヒストリエ9巻
エウメネスの手柄だったが、書記官が部隊を勝手に動かしたというのを隠すためにアッタロスに手柄を譲ります。
アンティパトロスに命じられエウメネスはフォイにクスとともに商家のものとしてアテネにもぐりに行くことになります。フォーキンの家に行き何度も何日も尋ねては見ますが、そのフォーキン自身に不在を告げられます。アリストテレスの口添えもありなんとかフォーキンの家に招き入れられ、フォーキン後援会を立ち上げたいと申し出るも、ことわられ、何度もマケドニア関係者ではないかとの疑念をぶつけられる。しかし将棋を通してうまくフォーキンに気に入られる。
アテネにはフォーキンともう一人デモステネスという弁士がおり、これが「マケドニア打つべし」とアテネ市民を焚き付けている。マケドニアにとってこれが邪魔であり、冷静分析に物事を見るフォーキンに占領後のアテネを任せたいという思いがあった。アンティパトロスそのためマケドニアとフォーキンのラインを構築したく、エウメネスを派遣させたのだ。
任務を一通り終えて帰る算段となったその翌朝、 一行は裏切りにあいマケドニアのスパイとして市民に差し出されることになってしまうも辛くも逃げ出すことに成功します。
フォーキンの周囲を探っていたときにメランティオスという人物が出入りしていたことを知ったエウメネスは、彼に興味を持ち尋ねてみることにします。実はフォーキンとエウメネスを引き合わせたのはアリストテレスではなく、かつてのカロンだったのだ。かつての縁により今回は見逃すことができるが、次回敵としてあったときは容赦なく戦うと告げます。
ヒストリエ10巻
エウメネスはフィリッポスのもとに戻り、カイロネイアの戦いに参戦します。デモステネスは一般の兵士として参加、指揮するのはカレス。
アレクサンドロスは単騎敵陣の内側に切り込み、多くを斬り殺します。続いてマケドニア騎馬隊が隊列を突き破り、マケドニアの完全勝利となります。
この事により、かつての同盟国テーベは占領、アテネの独立は守られたが、騎馬隊、海軍ともに解体され、 長きにわたりエーゲ海を支配していたアテネは消滅しました。
カイロネイアの戦い(カイロネイアのたたかい、ギリシア語: Μάχη της Χαιρώνειας)は、紀元前338年、ボイオティアのカイロネイアにおいて、アルゲアス朝マケドニア王国とアテナイ・テーバイ連合軍の間で戦われた会戦。この戦いは前年から始まった両軍の間の戦争における一大決戦であり、マケドニアに決定的な勝利をもたらした。勝利したマケドニア王ピリッポス2世は広大な支配領域と強力な軍隊、豊富な財力を有する事実上のギリシャの支配者となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
エウメネスはアッタロス家のエウリュディケとの婚約をアッタロスに申し出るも、エウリュディケは第7王妃に選ばれてしまったことを知る。と、同時に王の左腕に選ばれることも知ります。その噂は街中に広がり、彼を祝福したり妬んだりする人が現れますが、戦場に立つことに拒絶するエウメネスにとって 全く望んでいないことでした。
この2つの出来事によって、エウメネスは、将来の身の振り方を考えるようになります。
ヒストリエ11巻
壁新聞の記者が心は頭にあるのか心臓にあるのかと言うことを市民にアンケートをとっている場面から始まります。エウメネスは頭で全てを統括していると考え頭と答えました。アリストテレスは心は心臓に宿ると答えました。 アレクサンドロス王子は同級生たちとの世間話で心臓だと答えました。
パウサニアス
2年前の紀元前338年にカイロネイアの戦いにおいてギリシア軍を撃破し、紀元前337年にヘラス同盟の結成によってギリシアを統一したマケドニア王ピリッポス2世がオレスティスのパウサニアスによって暗殺され、その子であるアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)が即位した[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D336%E5%B9%B4
バルデュリス王。紀元前4世紀にバルデュリス王が現れて、イリュリア王国を強大な力を持つ国に変えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2
バルデュリス王が負けた場面より始まります。年の離れた兄弟が死者累々の戰場に立ち、兄はイリュリア王の娘アウダタと結婚しオレスティスの王となる予定でしたが、フィリッポス率いるマケドニアに敗北。一年前にマケドニアはイリュリアにより王もろとも討ち取られたのだが、フィリッポスの手腕により、急速に勢力を拡大しているのでした。
アウダタはフィリッポスの后になります。
ペルディッカス(ギリシア語: Περδίκκας、ラテン文字転記:Perdiccas、? – 紀元前321年または紀元前320年)は、アレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍であり、ディアドコイの一人である。オレスティスのマケドニア貴族オロンテスの子で、弟にはアルケタスがいる[1]。
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レオンナトス(希: Λεόννατος, ラテン文字表記:Leonnatos, 紀元前356年 – 紀元前322年)は、マケドニア王アレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の武将で、ディアドコイの一人である。
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クラテロス(希: Κρατερός、ラテン文字転記:Crateros、紀元前370年頃 – 紀元前321年)は、アレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍である。クラテロスはアレクサンドロス[要曖昧さ回避](大王とは別人)の子で、兄弟にはアンポテロスがいる[1]。
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兄弟は敗戦国の豪族として父親の盟友オレスティスの豪族オロンテスの世話になりながら、ペラに移り住みます。戦争に参加せずに戦力を保っていたオロンテスはフィリッポス王に気に入られ、マケドニア貴族になるため策を練っていました。世話になりつつ身分を追われた兄はフィリッポス、マケドニアのことが気に入っていません。
ある日フィリッポスは顔面に矢をうけました。それを聞いた兄はつい「ちっ、命は無事か」と漏らしてしまい、オロンテスの逆鱗に触れ、家を追い出されてしまいます。
数年後兄はフィリッポスの嫡男が弟にうり二つだということを発見します。兄はなにか考えを巡らせました。オロンテスの紹介により、よりマケドニアに近い存在のアンテアスを紹介され、弟パウサニアスを見習い兵にすることができました。しかし口利きをしてくれたアンテアスへ体の奉仕を続けることになります。
やがて兄の目論見通り、王の気に止まりアリストテレスの影武者としての役割が与えられます。一方兄は病にかかり、日々症状が重くなっていきました。
パウサニアスはフィリッポス一軍と供に獣狩に行きますが、そこで飛びかかってきたライオンに襲われます。迫りくるライオンの顔にただならぬものを感じず、真正面から攻撃をうけてしまい、顔に重症を負います。それを見た兄は叱責をします。パウサニアスを影武者として王の信頼を勝ち取り、その上で暗殺、マケドニアを奪い取ろうと考えていましたが、それが失敗に終わったと言うことを激昂しながら死んでいきます。
すでにマケドニアの嫡男がいるにも関わらずエウリュディケという后を娶ったフィリッポスに対して、オリュンピアスは毒でphp暗殺を図りますがエウメネスにより発覚します。フィリッポスはエウリュディケに、疲れているから故郷でゆっくり休養しなさいと伝えます。道中、エウリュディケは王の暗殺に合いますが、潜ませておいたネオプトレモスにより、暗殺者を下します。しかし最後に控えていたのはパウサニアス、ネオプトレモスと互角の勝負をして11巻は終わります。
以上の情報は2023-05-22 13:34時点で確認した情報です。価格変動、品切れ、クーポン終了、情報変更などがございます。リンク先でご確認ください。 投稿日
2023年5月22日